十字架のことば

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)


 パウロの伝道よって生み出されたコリント教会に生じていた問題の一つ、「仲間割れ」。「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と派閥争いをしているありさまに、パウロは「 キリストが分割されたのですか」と叱責する。そして何よりも自身の派閥ができていたとを嘆く。パウロは自分の誉れなどには全く関心がなかった。

 「私は……につく」というのは、自分を第一とした姿。パウロは、ガラテヤ書で「 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20)と語っているとおり、そこには、自我に死にキリストに生きているパウロの姿がある。

 パウロの「一致して」ということばは「一つのことを語る」とも訳せる。オーケストラの各パートはそれぞれ違う音色を奏で・違う譜面を受け持つが、全体で一つの音楽を奏でるように、キリスト者もそれぞれ違う性格・役割を担いながら、ひとつのキリストのからだを形成していくのである。

 パウロは「十字架のことば」、すなわち、キリストの贖いと救いの福音を語ることが自分の使命だと言う。私たちもこのことばをによって一致することができ、一つの神のからだを形成していくことができる。「私」ではなく「キリスト」が生きている生活をしたい。