朝の祈り

主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。(詩篇5:3)

 

 私たちは体や心が痛み、苦しい時、うめき、叫び声を上げたくなることがある。ダビデは、その声を神に聞いていてくださるように懇願する。イスラエルを治める一国の王が主を「私の王、私の神」と呼び、この世の王よりもはるかに優った天地万物を統べ治める全能者、主こそがまことの王だと告白するのである。「朝明けに」は「朝ごとに」とも訳される。詩人は毎日の営みの初めを神に呼ばわる祈りで始めていた。

 ダビデの祈りを聞かれる神は、今も私たちの祈りを聞いてくださる。かつて出エジプトの際、荒野を旅している民が、神が毎朝天から降らせてくださった食物マナを食べて満腹したように、今も朝ごとに、私たちは祈りによって霊的な糧を得ることができる。

 そして、神に身を避ける者は「みな喜び」に満たされるのである。神は私たちのうめきを、喜びの歌に変えることができるお方。「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」(詩篇30:4)とあるように、悲しみに暮れた一日も、神は次の朝明けに、喜びに満ちる者としてくださる。

 「見張りをいたします」は、期待をして待ち望むという意味あいを持つことば。主が一体何をしてくださるのか、私たちは胸を躍らせ、待ち望むことができる。朝明けに期待をして祈っていこう。